雑談散歩

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芭蕉が見る天空と地上絵「月見する座にうつくしき顔もなし」

名月や座に美しき顔もなし
松尾芭蕉

これは、ロングショットとクローズアップの「芭蕉視点」の典型的な句のひとつではあるまいかと、私が感じた句である。

天空に名月、地上に「名月観賞会」の人々とその顔つき。
この句を読む読者の視線は、芭蕉に誘導されて名月を眺め、そして一座の人々の顔の上に落ちる。
そこには戯画的なユーモアがある。
と同時に、美と醜という世間的な価値基準のことに思い至る。

この句も、芭蕉が改作に改作を重ねた上での決定句であるという。
決定句に至るまでの句に以下の句がある。

月見する座にうつくしき顔もなし
松尾芭蕉

例によって、決定句と改作途上の句と、どちらが好きかと問われれば、やはり後者になる。
「月見する座」であっても、名月の存在を感じ取ることが出来る。
それに「月見する座」の方が、人々の動きや顔の表情が、より感じられて面白い。

「うつくしき顔もなし」とは、芭蕉の願望なのだろう。
今夜の月は、うつくしい顔の人と一緒に眺めたいほどの名月であるというイメージ。
集まった人々の顔が醜いという話では無い。
普通の平凡な顔を持った人々なのである。

名月と美人を交互に眺めることが出来たら、座もいっそう風雅な雰囲気になることだろうという芭蕉の願望。
ロングショットで月をとらえ、同時に、月に見とれている美しい顔をクローズアップする。
これが私の趣味なのだが、今夜はいたって平凡な顔ぶれで少々風雅に欠ける思いがすると落胆している芭蕉。
それは句会にお集まりの皆さんも同じではございませんかと、芭蕉は参加者に同意を求めているのだ。

これが「名月や」では、参加者の生き生きとした表情が浮かび上がってこないように私は感じた。
「名月」と「美しき顔」の対比だけが鮮明で面白みに欠ける。

「月見する」と動詞で始まる後者の句の方が、その「座」の賑やかさが伝わってくるようである。
一同、月見酒に酔って騒いでいるから、月のように澄ました美しい顔は見当たらないなぁというイメージをこの句に抱くのも面白い。
「うつくしき顔」というのは、「月のように澄んだ顔」というイメージかもしれない。
皆が酒に酔って濁った顔になっている。
名月鑑賞会はいつもこうだなぁという、座を見つめる芭蕉の優しい視線が感じられる。

「美人と一緒に眺めたい名月の句」よりも「酔っ払い達と名月との対比の句」の方が、風雅ではないが俗な面白さがある。
後者の句の方が、その「面白さ」をより一層発揮しているように思われる。

私が俳諧を読む態度は、その句から「面白さ」を見出すことである。
ひとつの「面白さ」も見出せない句は、私にとってつまらない句となる。
そういう読み方自体が面白いものとして、私は気に入っている。

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