雑談散歩

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病床で漠然とした予感に語りかける芭蕉「秋深き隣は何をする人ぞ」

勤め人だったころ、風邪をひいてアパートの部屋で寝込んだことがあった。
そのアパートは、隣の部屋とは階段が別だったので、隣人と顔を合わせることが無いような造りになっていた。

仕事を休んで、日中病床についていると、隣からカタカタと音が聞こえた。
隣の部屋の住人が、中年の女性であるということは知っていた。
てっきりどこかに勤めている人と思っていたので、昼日中の物音に不思議な思いがした。

風邪のせいで神経が過敏になっていたからなのだろう、日中に聞きなれない物音が、ひどく気になった思い出がある。

風邪薬のせいでウトウト眠っているときに、その物音が夢の中に舞い込んだり。
高熱の影響による幻覚かと思ったり。

結局、隣のご婦人は勤め人ではなかった。
自宅で洋服の仕立ての仕事をしている人だったのだが。

秋深き隣は何をする人ぞ
松尾芭蕉

この句は、芭蕉が亡くなる10数日前の句であるとされている。
芭蕉は病床に伏せながら、この句を句会の発句として書き送ったと言われている。

謎解きのような発句である。
句会の参加者に、各々謎の隣人を設定して、その隣人が何をしている人なのかを詠んで私に教えておくれと芭蕉が頼んでいるような。

風邪で寝込んだ当時の私は、実在のアパートの隣人の事が気になっていた。
しかし、芭蕉が句に詠んだ「隣」とは、おそらく、実在の隣人では無いだろう。

秋も深まったころ、51歳で病にとりつかれた芭蕉は、自身の死を、漠然と予感していたのではあるまいか。
「隣」とは、その「漠然とした予感」なのではと私は思っている。

「おいおい、お前さんは何をする人なのかね・・・・」
うすうす感づいていながらも、芭蕉が、隣に座った幻の人に話しかけているイメージ。
あるいは、その隣の人物は自分自身であるのかもしれない。
隣で寝ている人は誰なのか。
何をしてきた人なのか。
芭蕉は自身の人生をかえりみて自問している。
私は、そんなイメージをこの句から感じとっている。

それは埋火(うずみび)に照らされて壁に映った自身の影法師との対話のようでもある。

ところで、「秋深き隣は何をする人ぞ」の句も、格言やことわざの類として利用されることが多いようである。
都会での日常の暮らしは、隣人に対して無関心でいることが多いというような意味で「秋深し隣は何をする人ぞ」と変形されて使われているようである。
隣人に対して無関心でいる様子が、「隣は何をする人ぞ」という突き放したような物言い。
別に「どんな人でもいいじゃないか」という「我関せず」の態度。

そんな現代の転用など知る由もない。
病みながら芭蕉は、実在の隣人としての自身に対して、好奇心を一層強めた。
病状が悪化するなかで芭蕉は、自身の「劇」を創り上げようと自身のネタ探しに夢中だった。
旅に病んで、幻のように、枯野にポツンと立った芭蕉。
秋深き夜の、幻の問いかけ。
秋深き隣は何をする人ぞ

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