雑談散歩

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水の音で発見したもう一つの日常「古池や蛙飛び込む水の音」

「水の音」が、まずあった。
それが、「蛙飛びこむ」という生々しいイメージを生んでいる。

「水の音」は、やがて「古池」の、つんと泥の匂いがする岸辺に、私を連れて行く。
その古池の周辺からは、泥の匂いとともに、むっとするような草いきれも感じとれる。

「水の音」が、匂いと蒸し暑さを伴った古池を、私の前に現出させる。
「水の音」に誘われて、古屋敷の荒れた庭に分け入り、「古池」という未知の世界に辿り着く。

私の視線の順番は「水の音」→「蛙」→「古池」となる。

だが芭蕉は、その順番通りではなく、「古池」という未知の世界を、一番最初に私の目の前に描いて見せる。
「どうだい、この池に見覚えがあるだろう。」と言わんばかり。

こういう読み方は、今までがそうであったように私のごくお粗末な「私観(楽しみ)」であることは言うまでもないが・・・・。

古池や蛙飛び込む水の音   
松尾芭蕉

確かなことは、水の音がしたということ。
水の音だけが現実である。

そこから展開する日常は、確実なことは何も無い未知の世界。

私が平凡な日常と言えるのは、過ぎ去った体験でしか無い。
この句が平凡な日常を描いているといわれている理由もそのあたりにある。
蛙が飛び込んだ後の池は静まり返って、日常の雰囲気で満ちている。
だが、そんな日常はどこにあるのだろう。
周囲には見当たらず、過去にしかないもののようである。
その過去の「古池」を未知なものとして、未来に据える。

私を過去に置き去りにして前に進む未来というもの。
その、ちょっと先の未来は、言わば不可視の現実。
やがて到来する現実ではあるが、その姿は見えない。

未来に平凡な日常は無い。

その水の音は、フナが跳ねたものなのか、亀が石の上から転げ落ちたものなのか、草薮のなかから崩れ落ちた腐木の枝のせいなのか、地中のメタンガスが漏れ出た音なのか・・・・・。

水の音を聞いた芭蕉が、それを句にしようと考える。
「あの音は、カエルが飛び込んだんじゃないかな?」

私は、飛び込んだカエルを見に行く。
音の原因を確かめに行く。
句を考えている芭蕉と、私が同時に進んでいるような気分。
その気分が、私を「水の音」の世界へ連れて行く。

私は「水の音」のした方へ、未知の世界へ、草薮をはらいながら進む。
そこは沼なのか、小川なのか、窪んだ水たまりなのか・・・・・・。

荒廃した屋敷の広い庭をさまよっていると、目の前に池が現れる。
草薮に埋もれかけた古池。
私の記憶の片隅にある池。
そういうふうに、芭蕉は、私の記憶をよみがえらせる。

その水面が赤錆色に濁った池のほとりで、私はここまで辿り着いた過去を振り返る。
「ああそうだ、水の音を聞いたのだった。」と思い出す。
そして「水の音」を聞く以前の、過去までさかのぼろうとする。

その池の歴史を知らないが、その池は、私の記憶にあるものだった。
そう、数十年前に、はじめてこの句に接したとき、「古池」って何だろうと思ったことがある。
「古池」とは何だろうと思ったあの「古池」だった。
その「古池」を探し当てた気分。
こうして、未知のものとして未来に据えられた「古池」は、もう一度、過去の位置に戻される。

はじめて接した古池は、今から考えると、ずいぶん古いものになっている。
朽ちた屋敷と草深い庭。
この場所もまた、もう一つの日常として進行しているのだろう。

「古池や蛙飛び込む水の音」と、平凡な日常は、何度も繰り返される。

そのように芭蕉が仕組んだ。
俳諧とは記憶のなかで何度も反芻されるものであると・・・・。
いつのまにか、私はそういう記憶の世界に飛び込んでいる。
気がつけば、古池の底。

未知の世界を指示して発せられた芭蕉の号令(水の音)。
未知の世界は、いつのまにか平凡な過去に入れ替わって、私をもうひとつの日常の岸辺に立たせている。

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